アマデ雑感


以下、ミュージカル「モーツァルト!」2010年帝劇公演を見ての、アマデに関わる部分についての雑感。


4演目となる今回公演は、第1幕で、以前とは、アマデの動き(や立ち位置)が大きく変わったシーンのいくつかが目についた。

「僕こそ音楽」では、従来は、曲の終盤でアマデはピアノ前へ歩いて行き、最後の「僕こそミュージック」のフレーズでヴォルフガングを振り返って、「このままの僕を愛して欲しい」ではピアノ前で正面を向いていた。それが、今回は、ピアノへ歩くのはヴォルフガングがうたい終わってからになり、アマデは床に譜面帳を広げてギリギリまで譜面を書き続けて、「このままの僕を愛して欲しい」では譜面を書いていたそのままの位置(ヴォルフガングの少し斜め後ろ)で立つようになった。

マンハイムウェーバー家のシーンでは、以前のアマデは、ヴォルフガングがアロイズィアとくっつくと、あきれた様子で下手へ退場していたが、今回は、階段を下りて来てヴォルフガングをとがめるように羽根ペンを突きつけて、アロイズィアを伴ったヴォルフガングの後を追って行く。

ザルツブルクの大聖堂の場では、「星から降る金」のあとの「私ほどお前を愛するものはいない」で、最後は、ヴォルフガング&アマデ、レオポルト&ナンネールとで天地に別れてキマるのだが、セットの上でアマデがヴォルフガングの左手を取るところで、その手の取り方が、変わった。以前は、アマデが右手でヴォルフガングの左手をパッと握って手をつなぎ、そのまま正面を切ってシーンが終わったが、今回は、いちど身体ごとヴォルフガングのほうへ向けて近づき、丁寧にその左手を取るようになった。かつてのアマデたちよりも、ヴォルフガングのことを慮るようなところがある。

このあたりは、「僕こそ音楽」やウェーバー家のシーンでヴォルフガングとアマデの距離を視覚的に近づけたように、第1幕では両者の関係の親密さを打ち出したとも思えるし、あるいは、今回公演のナンネールのポジションがレオポルト寄りになっているために、このシーンでのアマデをいままでよりヴォルフガング側へ位置付けたものかも知れない。

今回公演のナンネールは、はっきりとレオポルト寄りのスタンスをとっていて、ヴォルフガングに対して批判的に変わっているのだが、そのナンネールの心情は、最初のメスマー邸のシーンから顕著で、レオポルトがうたう「残念ながらもうじき、ただの大人になってしまうかも知れない。子どものままなら」の言葉へのリアクションが以前より深くなっていて、神童としてピークにあるアマデと、すでに奇跡の少女の時代が過ぎ去ってしまった姉の対比がより強調されていて、冒頭から、ナンネールの悲劇が浮き彫りになっている。

モーツァルト!」というミュージカルは、ヴォルフガングが家族や権力から自立しようと闘う、自立のドラマであると同時に、自立される側のドラマが並立している構造である(しかし、結局、ヴォルフガングはアマデからは逃れられないというドラマでもある)。


「影を逃がれて」では、舞台下手での、ヴォルフガングに取られた箱の取り返し方も変わった。以前のアマデは、ヴォルフガングが左手で差し出した箱を右手で取ると、そのまま踵を返して、中央の机へ歩いて行ったが、今回は、ヴォルフガングが両手で持っている箱を身体の前で受け取ると、右手で持ったまま正面を向き、じっと箱を見るというこなしがあって、それから机へと歩き出す。

ここで、アマデが箱を取り返すタイミングも従来よりも早くなった。また、以前のアマデは右手を差し出し佇立して、ヴォルフガングが箱を自分から返すのを促すように待っていたが、今回公演のアマデは、以前より早いタイミングに加えて、ヴォルフガングが持っている箱を、自分から歩み寄って受け取るといった感じの動きになっている。


それにしても(と、これは今回公演に限ったことではないが)、第1幕最後の「影を逃がれて」の演出は、見るたびに面白い。コロスのように、モーツァルトを見下ろすキャストたちは、「影を逃がれて」をうたっているヴォルフガングではなく、本来ヴォルフガングにしか見えないはずのアマデのほうを見ている。皆、ヴォルフガングという青年よりも、神童時代のイメージを見ている訳だ。

第2幕のクライマックス、「モーツァルトモーツァルト!」は、「影を逃がれて」と同じようなステージングだが、ここではアマデは離反していて、コロスのように登場したキャストは、今度はヴォルフガング本人を見ている。この両幕のクライマックスの対照は、何度見ても褪せない見ごたえ。

モーツァルトモーツァルト!」で上手奥の階段に立ったアマデと、レクイエムを作曲するヴォルフガングとの距離感は、今回公演の変更点で両者の距離を詰めていたゆえに、改めて意識させられることでもあった。


今回の帝劇公演では、ヴォルフガングの腕に羽根ペンを突き刺すシーンのアマデの表情が3者三様で、坂口アマデのちょっと笑ったニヤリとした顔、挑むような松田アマデ、こうするしかないとでもいうように複雑な表情を見せる黒木アマデと、それぞれに特徴がうかがえた。


黒木璃七ちゃんのアマデといえば、立ち姿がとてもかわいかった。脚の構えと、つま先の開き具合が絶品。それに、相手を見るときに少し首をかしげた感じになるときの姿勢のすばらしさといったらなかった。また、身をひるがえすときのこなしもきれいだった。


アマデの出演シーンはどれも印象的だが、「何処だ、モーツァルト!」のナンバーが終わったあと、やれやれといった感じにすくめた肩を下ろしてから、上手ソデへ歩き出すところや、「何故愛せないの?」の「僕は他のひとと同じにはなれない。本当の自分を殺せはしない」で、奥の黒いカーテンがサッと開いて、アマデが出て来るところ。このあたりは、密かにお気に入りな場面である。


だけどさ、アマデって、こけないよね。あれは、すごい。アマデがこけたのって、私はいちども見たことがないが、こけたことがあるのかな?譜面帳と箱と羽根ペンの3点セットを持って演じて、それにあれだけ速足で歩いたり、階段を昇り降りもしているのに…


今回の帝国劇場公演での観劇回数は、結局、

松田アマデ 5回、黒木アマデ 4回、坂口アマデ 3回

で、ちょうどそれぞれの学年と同じになったので、なんだかおさまりがいい。


(2011年1月の)梅田芸術劇場公演で、「モーツァルト!」の通算公演回数が400回になるので、その日に行きたいな、とか思ったが、日帰りが無理なのであきらめている。

ということで、2010年帝劇公演までの観劇の内訳は、下記のとおり。

黒木璃七 4回(井上4)
坂口湧久 3回(井上2、山崎1)
松田亜美 5回(井上5)

田澤有里朱 2回(中川2)
野本ほたる 4回(井上4)
真嶋優 4回(井上1、中川3)

伊藤渚 6回(井上6)
川綱治加来 7回(中川7)
黒沢ともよ 6回(井上1、中川5)
高橋愛子 7回(井上3、中川4)

石川楓 3回(井上1、中川2)
内野明音 2回(井上2)
鶴岡良 6回(井上1、中川5)