オリジナルミュージカル「選ばなかった冒険」(関東国際高校演劇科卒業公演)


関東国際高等学校演劇科 第23期生卒業公演
オリジナルミュージカル「選ばなかった冒険 光の石の伝説」

(原作:岡田淳、脚本・衣裳:長澄桃子、監修・演出・振付:長澄修、振付:石橋ちさと、作曲:玉麻尚一)

を観劇。

12月13日(土)、14日(日)の両日、川口リリアメインホールで計2ステージ上演された同校演劇科の第23期生卒業公演のうち、13日の舞台を見たので、以下、雑感。


13日は、午後5時開演。

場内アナウンスでは、たしか、一幕73分、幕間20分、二幕67分といっていたと思うが、じっさいに終わったのは、7時53分頃。終演予定は、7時40分となっていたが、開演が10分近く遅れたのを差し引くと、少し押したくらいだったか。

13日がA班、14日がB班で(一部配役以外は)ダブルキャストとなっているが、舞台には37人出演していたから、役に付かない日はアンサンブルとしての出演ということだろう。


学(ガク)という男の子と、あかりという女の子が、ある日、「光の石の伝説」というゲームにそっくりの世界に入り込んでしまう。襲って来るモンスターや闇の王を倒して、何でも願いをかなえてくれる光の石を手に入れて、支配者になるとクリア、というゲームである。

現実世界の学とあかりの「夢」のなかでゲーム世界が展開し、ゲーム世界にいる学とあかりの「夢」のなかに現実世界があるという構図で、ふたつの世界が背中合わせのようになっている。ゲーム世界での学やあかりは、「敵」に殺されたとしても、「夢」の記憶が消えるだけで現実世界で命がおびやかされる訳ではない。が、ゲームの世界は学やあかりの学校にそっくりだし、ふたりの身近にいる人間がゲーム世界にも存在しており、ゲーム世界での記憶は現実世界にも反映するようなのだ。


ゲームのキャラクターはそれぞれが決まった役割りをするだけなのだが、そのゲームの世界を生きる準備のない学とあかりは、たとえ相手が主人公に倒されるべきキャラクターであっても、それを殺すことを躊躇する。自分たちが死なないためには、敵を倒すしかないのか? 襲って来たフクロハリネズミのハリーを殺さなかったことから、ハリネズミはゲームのなかで与えられた役割りを離れて学とあかりに協力するようになり、友好関係が生じる。

そんなとき、ふたりは、同じようにゲームのなかに入り込んだ勇太という(現実世界では隣のクラスの)少年と出会い、もとの世界に戻るには、「敵」を倒して光の石を手に入れることが先決だとする彼と行動を共にすることになる。勇太は、ゲームの主人公になって光の石を手に入れる戦いをすることを選び、ゲームのなかのキャラクターである戦士を味方にし、戦う技術や武器も持っている。学は彼らといっしょにいることで次第に戦う方法を身に付けて行くが、あかりは、「敵」を殺すことには踏み出せないままでいる。


勇太たちは「敵」に殺されるが、学とあかりはフクロハリネズミや、途中で知り合ったもぐら男とともに闇の王に迫る。戦えないあかりが人質にとられたことで学がその犠牲に倒れたとき、ゲームの設定に従って敵を殺すことに懐疑的だったあかりが、ついには闇の王をその手で倒し、光の石を手中にするが、願いを叶えてくれる光の石そのものの消滅を願うことで、「光の石の伝説」というゲーム世界そのものを終わらせる。

この結末は、決断して踏み出さなければ(ときに自分の手を汚さなければ)何かを変えることは出来ないというシビアな現実を再認識させるが、それと同時に、あかりのように「敵」を倒すことに懐疑的であっても、一定の状況に陥れば、他者を殺すという行為に選ばざるを得なくなる可能性を示してもいる。主人公が子どもだからゲームに仮託されているけれど、単にゲームのなかの状況にとどまらず、一般化し得ることだと受け取るべきだろう。


劇中には、細かい仕掛けが色々とあり、その都度、観客の心に問題を投げかける。
たとえば、ゲームの世界の進行と並行して、現実世界の学やあかり、周囲の子どもたちの日常が挿入され、役割りを生きているのはゲームのキャラクターだけではない、現実社会の我々も、じつは周囲から求められた、人間関係や様々なヒエラルキーによる役割りを受け容れているだけではないのか、という問題を突きつけられる。


ファンタジックなミュージカルによくある、行って帰って来るストーリー(主人公が異世界や、非日常的な体験をしてひと回り成長したり、大切なことに気づいて、もとの世界に帰って来るという展開のこと)なのだが、「選ばなかった冒険」では、その枠組や登場人物の置かれた状況など、ストーリー上の仕掛けや設定が複雑だ。そのためか、シーンやセリフは少なからず説明的に感じられたが、そこを、よく訓練された群舞や歌唱でテンポを落とさずに運んで行くところがこの舞台のポイントだろう。

また、間を取ったりタメをつくったりせずに、次々にしゃべる出演者たちのセリフは、一本調子で画一的なのだが、それがかえって、感情過多にならずに、ストーリーの仕掛けや構造を客席へ伝えていると思えたのが、発見でもあった。


正味の上演時間は約2時間20分で、昨年(http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20071214/p1)よりも20分も長く、一部冗長と思う箇所もあった(第一幕のエクササイズなどは見ていて間がもたなくなる)が、多くのシーンは密度が濃く、よくここまでの量をこなすものだなぁ、と素直に感心させられる。

観劇後、原作ではどう書かれているのか確認したいと思うところもあったが・・・さて、原作を手に取る機会があるだろうか?


上演中、隣の席のひとが頻繁に携帯電話を取り出してチェックするので、まぶしいし、気が散って、困った。そもそも学校行事だし、客席のほとんどは学校関係者か生徒さんの身内だろうから、部外者としては文句をいえる立場でもなく、けっこうストレスになった。