「オットーと呼ばれる日本人」を観劇
新国立劇場 中劇場で、「オットーと呼ばれる日本人」(木下順二 作、鵜山仁 演出)を見た。
過去ログのこの(http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20080527/p3)舞台である。
公演プログラム、800円。
プログラムを買うと、「企画展 木下順二 作『オットーと呼ばれる日本人』とゾルゲ事件」のパンフレットが、おまけとして付いて来る。その企画展というのは、同劇場ロビーにあった小規模の展示のことのようだ。
場内に掲示されていた上演時間は、
第一幕(1930年代の初頭、上海) 1時間15分
休憩 15分
第二幕(1930年代の半ば、東京) 1時間5分
休憩 5分
第三幕(1940年代の初頭、東京) 1時間
座席表(http://www.nntt.jac.go.jp/updata/ko_20000245_zaseki.jpg)にあったように張り出し舞台で、回り舞台も設置して奥行きを深く取り、最前列は、6列。この公演は、2階席はチケットを売らなかったようだが、6月8日(日)の公演は、2階にも若干ひとが入っていた(関係者だったのか、当日券等で発売したのか、そのあたりは不詳)。
休憩を差し引いた正味の上演時間は、ほとんど歌舞伎並みで明治座あたりの3幕芝居よりも長いのだが、このゾルゲ事件を劇化した舞台は、予想した以上に面白かった。新劇の作品に、映像畑の俳優や、商業演劇の女優を配したことで、自然とそれがメリハリにもなっていたかも知れない。
効果的だったのは、字幕である。開幕前のマスコミ報道や、新聞劇評等でも話題になっていたが、ジョンスンと呼ばれるドイツ人、宋夫人と呼ばれるアメリカ人、フリッツという名のドイツ人を外国人俳優が演じ、そのセリフの多くが英語やドイツ語で語られる。外国語に訳されたセリフには、日本語の字幕が出る。(この字幕は、木下順二が書いた本来のセリフが、そのまま映し出されていたと思っていいだろうか?)
第2幕、第3幕での、オットーとジョンスンが、両者の祖国への思いやスタンスのちがい、日本の行く末をめぐって、セリフの応酬になるのがこの芝居のやま場のひとつだが、ふたりの論争はちがう言語で行なわれる。外国語の分からない無学な私などは、オットーのセリフを耳で聴きながら、ジョンスンのセリフは字幕の日本語を読むことになり、この状況は芝居としては不自然にも思えるが、じっさいに客席にいると、意外の効果を生むことが分かる。
ジョンスンの発するセリフを字幕の日本語で読むことで、観客である自分がジョンスンとして、劇中のオットーと対峙しているように感じられるため、傍観者的な視点から一歩踏み込んで、この芝居に入り込んだ気になるのである。祖国に対する想いや、抱く理想も、どちらかというなら、私はオットーよりもジョンスンのほうを支持したいから、なおさら自分が論争の当事者であるような臨場感を得ることが出来た。
芝居のセリフは、ステージ上の他のことに気を取られるなどちょっとしたことで聴き逃したり、聴いているつもりで聴いていないこともある訳だが、外国語の分からない観客にジョンスンのセリフを字幕で読ませることで、観客の意識を登場人物に近づけている。
オットーと呼ばれる日本人の吉田栄作は、スパイ活動に手を染める上海の新聞記者時代、日本に戻り知識人として売れはじめる時代、近衛文麿のブレーン時代と、各幕ごとにオットーの人物像をそれらしく少しずつ変化させていて、なるほど、この役はこういうふうにつくるのか、と思った。後の幕へと場を重ねるに従い、オットーの姿には、スパイ活動の澱のようなものが見えて来る。そんな演技に見ごたえがあった。
6月8日は、千秋楽だったが、カーテンコール(子役を含めたオールキャスト)はあっさり終わり、すぐに客電が点いた。
午後1時開演で、終演は4時47分頃。
中劇場は、開場したときに声が通らないことが問題になり、こけら落としのときに、すでに俳優はマイクを使っていたと、ものの本にあった。久しぶりに中劇場のストレートプレイに足を運んだので注目して見たが、ほとんどの出演者は(左右どちらかの)耳の上あたりにマイクを付けていた。永島敏行はネクタイに付けてあった。
なお、子役は、それぞれ交互出演で、以下のようであった。
オットーの娘:新井亜莉沙・高地杏美
瀬川の娘:牛込星蘭・高瀬桃子
プログラムの稽古写真に写っているのが新井亜莉沙さんと高瀬桃子さんで、所見の8日は別のふたり、高地杏美さんと牛込星蘭さんの出演だったと思われる。白い服がオットーの娘で、黄色の服が瀬川の娘。舞台前方の屋内にいるオットーたちの後方で、背景になって子どもふたりが遊んだりもしていた。
オットーの娘役のほうが出演シーンが多い。