モーツァルト! 7月18日夜(帝国劇場)



7月18日(月・祝)は、帝国劇場で、ミュージカル「モーツァルト!」を観劇。

5時45分開演の夜公演。



公演日程では「貸切」になっていたが、e+ にて、定価で購入したチケットでの観劇。どこの貸切だったのかしら。それとなく見ていたら、みなさん e+ のチケットを持っていらしたようだった(が、e+ の貸切なんてないよね?)。





井上芳雄のヴォルフガングに、高橋愛子のアマデ。



この日の高橋愛子さんで、ようやく、今年のアマデ子役4人を見ることが出来た。



抑制を効かせた演技で、冷たい雰囲気をまとい、また、いかにも女の子が演じているらしく潔癖な印象を与える造形のアマデだ。(決して大きくはない)目に意志があって、緊張の高まるシーンが見どころだ。



すっと立っているときに身体が微妙に揺れていたり、「才能の箱」を持つ指が動いたりして、動きがきまらない点は、少し気になった。身に湛える雰囲気の濃さと身体的表現に、やや誤差があるように感じたが…これは、別のヴォルフガングと組んだときに観劇の機会があれば、再考してみたい、と思う。





今年の「モーツァルト!」から感じることのひとつは・・・

井上ヴォルフガングにとってのアマデと、中川ヴォルフガングにとってのアマデ。その異質さが明瞭になっているということ。



中川ヴォルフガングが抱えているアマデのほうが、存在が生々しく厄介。これは、子役や子役の演技のちがいのことではなくて、ヴォルフガングのアマデへの向き合い方、という意味で。

誤解を恐れずに書けば、中川ヴォルフガングが見ているアマデのほうが多面的なのではないか。…過去(少年時代)の自分自身であり、同じモーツァルトとして連れ添うライバルであり、人間と才能として対立せざるを得ない不可分の相手。



で、井上ヴォルフガングにとってのアマデはどうかといえば、イメージ性の強さとともに、ヴォルフガングの内面を映す鏡のように思えるのだが。





さて、7月18日夜公演。カーテンコールのあと、オーケストラの演奏が終わって、そのあとの緞帳前は・・・

井上・高橋のヴォルフガング・アマデコンビが下手から登場 →(向かって)右に高橋さん、左に井上氏が手をつないで、舞台中央で「礼」 →上手へ行って「礼」 →下手へ戻って「礼」 →再び舞台中央へ行って、ふたりで投げキス。ヴォルフガングがアマデをおんぶして、(愛子 嬢が客席へ手を振りながら)下手ソデへ去って、了。