観客として「見る(観る)」ということ



保坂和志「小説の自由」(新潮社、1700円税別)という本のなかに、次のような件りがある。


『 批評家・評論家・書評家の仕事は「読む」ことだと思われているがそれは間違いで、彼ら彼女らの仕事は「書く」ことだ。(中略)「読むだけでは仕事にならないじゃないか」と言う人がいるかもしれないが、仕事にしないで「読む」人がいる。読者とはそういう人たちのことだ。
 批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい。書くことを仕事としない読者でも、最近はインターネットで自分だけの書評のサイトを持ったりすることもできるから、その人たちがどこまで読者として読んでいるかもまた疑わしい。
(後略)』



(※↑引用の際の太字は、はつせ、による。原文は太字ではないのでご注意)



この件りの、「書評」を劇評に、「読者」を観客に、「読む」を見る(観る)に置き換えると、演劇、舞台における観客論(どう見るのか)を考えるとっかかりになりそうだ。


自分を振り返ってみる。

書くことは結果あるいは「おまけ」であって、書くために(舞台を)見る訳ではないが、感じたことに適切な言葉を探そうとするくせがついた。
同じ舞台を何度か見る場合には、すでにその舞台を見て書いた自分の言葉にとらわれがちだ。舞台はナマモノで、全く同じステージが再生される訳ではないから、1回々々を虚心で見ればいいのだが、どうしても前回と比較しての変化やちがいを見ようとしてしまう。
再演を重ねている作品や、ロングラン作品では、いま目の前で上演されているステージを見ながら、じつは、過去に見たステージへと想いを馳せていたり、いまは出演していない俳優のその役を思い返していたり、つまり、現前するステージを見ていながらじつは回顧していることが少なくない。

観客として、目の前のステージを虚心に見る、とはどういうことだろう。たしかに、それに該当する楽しみ方をしていたといえる頃はあったと思う。でも、そうでなくなったのは、インターネットで何かを書くようになったからだろうか…

このあたりのことを、それとなく、考えつづけてみたい。