Fabien Prioville&Ballet Noah(ファビアン・プリオヴィユ&バレエノア)「EDDIE エディ」「LES AVIONS DE PAPIER 紙ひこうき」


8月29日(金)は、世田谷パブリックシアターで、ファビアンプリオヴィユ&バレエノアの公演「エディ」「紙ひこうき」を見た。

高崎沼田バレエスタヂオを母体とするNPO法人バレエノアが、今年4月に、彩の国さいたま芸術劇場 小ホールで2ステージ上演し、高評を得た公演の再演である。


午後6時30分開演。

ファビアンプリオヴィユの振付・演出・出演による「エディー」が、20分。

 休憩10分

ファビアンプリオヴィユの振付・演出、若い女性ダンサー11人による「レ アヴィヨン デ パピエ 紙ひこうき」が、90分。


公演プログラム、300円。
そのプログラムと、プロモーション映像として公開されている初演時の映像のクレジットを見較べると、この再演ではダンサーのひとりが交替したようである。


全席自由(3階は学生席と当日券)で、開演の1時間前にロビー開場、30分前に客席開場。

1階席は、ほぼ満席。2階は、6割程度。3階は半分ぐらいの入りだったでしょうか。

ステージは、A〜E列の座席を撤去して、そこに半円状に張り出したかたち。しかも、高さのある舞台を取り払って、本舞台の位置まで含めて客席の床の高さにしてあって、つまり平場のステージになっている。初演の彩の国さいたま芸術劇場 小ホールと似たようなステージという意図だろう。


「EDDIE エディー」は、ファビアン・プリオヴィユ自身の故障からの復帰経験をモチーフにしたという作品。入場の際にチラシ類といっしょに配布された「身体の記憶の写真」に彼の経験した故障と、部位の写真が掲載されているが、それによると、ひじ、腰、ひざ、足で7か所が示されている。なかでも、椎間板ヘルニアでは、6か月間寝たきりだったという。

横倒しに倒れ、横向きのまま這う動きにインパクトがあった(休憩後の「紙ひこうき」でも、ダンサーたちが、横倒しに倒れる振りが繰り返されていて、この振付家の特徴なのかも知れない)。

後半、照明を落とした舞台で、闇に白く光るサポーターが印象的に使われる。最後は、回復を思わせるダンスのあと、白く蛍光にひかるサポーターを次々に脱ぎ捨てて、身体の復活を見せるように終わる。

ステージは、およそプロセニアムより前を使っていた。


休憩後に、「Les Avions de Papier 紙ひこうき」

もっと短い作品かと思っていたので、90分という上演時間の長さにまずおどろく。
張り出し部分も含めた平場の素舞台といっていい空間に、11人の若い女性ダンサーによるシーンが展開する。

女子高生の「いじめ」や息苦しい人間関係を扱っているのだが、それにとどまらず、高校生世代の女の子の日常や心象をスケッチして行く構成は、ユーモラスなシーンも織り交ぜて、全く飽きない。適宜さまざまな小道具が使われ、マスクや、映像も用いられる。また、セリフのあるシーンもあり、踊りだけでなく演劇的な要素を取り入れて幅を出している。


仮面の女子高生が並んで、そのマスクの上に化粧をする不気味さ。スクリーン映像のいじめ体験談に観客を注目させておいて、いつの間にかダンサーが客席通路からステージへ現れる演出。シーツ(布)を使ってダンスや演技を影絵のように見せる手法。休み時間の教室、周囲のクラスメイトたちがストップモーションで動かなくなると、普段はいえない本音をぶちまける生徒。(ダンサーたちの地元、高崎のかるたが笑いを誘う)
次々に繰り出されるダンスのシチュエーションと手法は、じつにバラエティに富んでいる。


ふたりの少女が顔を見合わせたままステージに現れ、ずーっと顔を見合わせながら、向かい合ってレジャーシートを広げ、お弁当を食べ、後片付けをし、最後まで顔を見合わせたままで退場する、というスケッチがとても面白かった。

目と口をふさがれた少女がコート(?)のなかに閉じ込められていて、そのなかから少しずつ這い出して来る姿は、なんとも衝撃的だ。その様子を、執拗に懐中電灯の光で照らす。苦悶する少女をこれでもかと懐中電灯のライトが追い続ける、その容赦のない演出と緊張感は、この作品中の白眉だ。創り手の作品に対する生半可でない覚悟のようなものを感じるシーンだった。


タイトルにもなっている「紙ひこうき」のシーンは、こんなだ。制服姿の10人のダンサーが横に倒れる振付の群舞を踊り続ける傍らで、ひとり淡々と紙ひこうきを折る少女がいる。そのまま紙ひこうきを折っていられるかというと、そうではなく、徐々に迫って来た10人によって、最後、紙ひこうきを折る少女は覆い隠されてしまう。
異質なものをはじき出し、しかし、はじき出された者は放っておいてももらえない、という現実をダンスにしている。紙ひこうきを折る少女が、群舞の集団とは制服の着こなしやハイソックスの色がちがうあたりは、振付家の(インタビューでも語っている)日本の女子高生に対する見識を分かりやすく反映したものだろう。


パフォーマンスする若いダンサーたちは、みな、各シーンを通してセクシャルでもあった。
それは、たとえばダンサーの若さや、制服という衣裳にも起因するだろう。また、別には、学校や友だち関係、繰り返される日常といったもろもろの不自由さや抑圧をダンスでえがくことは、その振付が彼女たちを拘束することにもなるためだ。

とても刺激的な作品で、また見て、新しい発見をしてみたいものである。


内容からして、大衆ウケしそうな要素を孕んでいると思うが、公式ブログを読むと、主宰者がバレエノアでやりたいのは、エンターテインメントではなくアートだとある。




なお、この公演は、チラシ、プログラム、公式サイト、新聞記事等で作品名や人名の表記が一定していない(なかぐろ「・」や長音「ー」があったりなかったり、大文字・小文字の使い方など)ので、拙ブログでも、あえていくつかの表記を混ぜてあります。