舞台はやめられない



古川清「舞台はやめられない」(飛鳥新社、2200円税別) を購入。



東宝で「レ・ミゼラブル」などのプロデューサーとして知られた著者が、東宝時代の仕事を振り返ってのもろもろをつづった本。氏の父が、かの古川ロッパだというのは、これを読んではじめて知った。



関わった公演の数々、森繁版「屋根の上のヴァイオリン弾き」や、とくに「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」のオーディションあたりは面白い。が、(あとがきで触れているように)差しさわりがあるためか、上っ面をなぞっただけの印象で、読者としてはもっと突っ込んで書いてくれないのかと欲求不満が募る。



ミス・サイゴン」での、エンジニア役者の降板の件は、簡単だがはっきりと書かれている。

また、この本によれば、「レ・ミゼラブル」は、最初は、ダブルキャストでやるつもりはなく、鹿賀丈史はジャベール候補として選ばれたらしい。ということは、当初の想定では、滝田栄バルジャンに鹿賀丈史ジャベールのシングルで、ということだったのだろうか…(?)。





レ・ミゼラブル」初演(帝劇)といえば、チケット発売に際して出された(当時の新聞広告に載っていた)、バルジャンとジャベールのキャストスケジュールは、



プレビュー&開幕すぐの2週間は、バルジャンとジャベールを鹿賀・滝田の役替わりで通す。

その後は、2週間で20回ある公演を、バルジャンは鹿賀・滝田が10回ずつ。役替わりで同じふたりがジャベールを6回ずつ。残りの8回のジャベールが村井国夫、となっていた。



その後、村井国夫が降板(『「レ・ミゼラブル」の100人』という本に、初演時の降板のいきさつが書かれている)したため、2週間中の8回のジャベールはアンサンブルからの出演(のちに佐山陽規と決まる)に変更された。



改めて、手もとにある新聞広告(朝日新聞)を見てみると、1986年12月上旬の広告には村井国夫がジャベールとして入っているが、1987年1月下旬の広告にはもういない。ということは、この間に降板が決まったのだろうから、開幕の約半年前のことだったのか。



・・・と、わざわざ、旧い新聞の切り抜きを探してしまった。

ちなみに、「レ・ミゼラブル」の初演は見ていないので、チラシとかプログラムは持っていない(残念至極)。