モーツァルト! 11月22日昼


11月22日(木)は、帝国劇場で、ミュージカル「モーツァルト!」を観劇。この日は昼の部のみで、午後1時開演。(終了は、午後4時25分頃)


開演前に、窓口で後日の日程のチケットを引き取ったら、チケットの紙がくすんだオレンジ色(薄い柿色みたいな)をしていた。いつから、用紙の色がかわったのだろう。最近は、コンビニエンスストアでの発券が多いが、たまには劇場の窓口でも引き取ってみるべきと思った。

平日のお昼とあって、売店のひとだかりもさほどではないし、昼の部だと、幕間(休憩は、昼の部も25分になっていた)にはビルの中の本屋に行けるし、初日よりも寛いだ気持ちでの観劇。
初日は下手からの観劇だったが、この日は上手側からで、視点のちがいも楽しんだ。

桶川高校観劇会という団体さんが入っていた。埼玉県の県立高校の、でしょうね。


中川ヴォルフガングに、アマデは、真嶋優ちゃん。

中川ヴォルフガングは、初日よりもうたが弾けていて好調に、また、初日よりものびのびと演じているように見えた。

今回は、一幕のはじめのほうの「赤いコート」(ザルツブルクモーツァルト家のシーン)で、ヴォルフガングがコートへの執着をより強調する演技をしているのが印象的。
でも、プラター公園では、「いくいく」っていわなくなっちゃったなぁ(中川ヴォルフガングのあれが気に入っていたのに…)。


真嶋優ちゃんは、緩急の「緩」の動きや表現が上手くて、ゆっくり顔を横に向けるときなどに、独特の雰囲気がある。

真嶋アマデは、表情の変化や感情表出は控え目で、その居方は、たとえばピアノ前で振り向いて「僕こそ音楽」のフレーズで頷くなど、そのときどきでヴォルフガングに対するスタンスを鮮明にしていた2005年の某アマデとは対照的だ。女の子が演じるアマデにしては、一貫して中性的だからか、ヴォルフガングを挟んだコンスタンツェとの対峙がトライアングルとして立ち上がっては来ない。これは、コンスタンツェ女優の役作りのせいかも知れず、二幕で、「あなたが愛しているのは自分の才能だけ」と、コンスタンツェがうたうとき、そこに、見えていないはずの才能=アマデの存在を感じさせるようでなければ、見えないはずのアマデとコンスタンツェの関係の緊張感は舞台の上に成立しにくいだろう。


「放浪記」のだんなさんのアルコ伯爵が、なかなか面白い。馬車のシーンの揺れている芝居で、コロレドと手が接触しちゃって、やたらと恐縮する演技が可笑しかった。


最後の緞帳前のヴォルフガングとアマデは・・・下手ソデから真嶋アマデが先に登場して、舞台中央でヴォルフガングを手招きで呼び出す。ふたり、つないだ手を上げ、拍手にこたえて、お辞儀〜投げキスの連発。中川ヴォルフガングが先にソデへ引っ込むと、そのあと真嶋優ちゃんが去り際に投げキスをして、了。


この「モーツァルト!」では、アマデが、青年ヴォルフガングのインサイドに棲む才能の具象=神童と呼ばれた過去の姿、として存在している。そのアマデの姿は、ヴォルフガングにしか見えていないのだが、ヴォルフガングの家族や彼を知る人物たちにとっては、ヴォルフガングの成長後も切り離せないイメージとして共有されていることの示唆にもなっている。
これは、客席から舞台を見る観客にとっても同様で、「モーツァルト」と聞いて思い浮かべるイメージは等身大のリアルな青年の姿というより、白いかつらをかぶった肖像画のそれであろうから、そんな固定観念をアマデの姿に重ねる私たちも、客席から無責任な観衆のひとりとして、過去から逃れられないヴォルフガングの苦悩に加担していることになるのだ。
この仕掛けは、「モーツァルト!」というミュージカルのとても面白いところである。


(関連のログ。http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20071122/p4)