「ドラクル」を観劇


9月25日(火)に、シアターコクーン「ドラクル」(作・演出:長塚圭史)を観劇。

午後2時開演のステージ。一幕が3時25分まで、幕間20分、二幕(+カーテンコール)が終わったのが、5時15分。

公演プログラム、1800円。
公演ポスター(大)、1000円。公演ポスター(小)、800円。


新聞の劇評も読んでいたし(http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20070913/p1)、プログラムをパラパラめくったら、演出家が「暴れるのは禁じ手にしよう」といっているくらいだから、観劇前から過度の期待は捨て去ってはいたが、それにしても、あんな終わり方ではあんまりというものだ。

市川海老蔵演じる主役の吸血鬼レイが、にんにくだの聖水だのにあっけなくやられて捕らえられ、檻に入れられたまま陽を浴びて死んでおしまいとなる。しかも、まだ続きがあるかのような煮え切らない幕引きだから、一瞬、もうひと波乱あるのか、と無用の期待を抱かせる演出の後味の悪さ。

不道徳なイカれた司教(手塚とおる)には何の裁きもなく、無能な領主(勝村政信)ものうのうと生き延びたままでは、見ていて溜飲が下がらず、なんとも欲求不満の募る芝居だった。(こういうのを現代劇版辛抱立役とでもいうのかしら?) あるいは、檻に捕われた市川宗家の御曹司という絵面には、何か倒錯的な趣向を見取るべきなのか。

仮に宗教劇だとすれば、結句宗教とは職業宗教者による政治だ、ということだろうか。とすれば、演出家自らが司教を演じていれば、作・演出家=権力者=不道徳なイカれた司教という図式が生まれ、含みがあって面白かったのに。ついでに、最後は、死んだと見せて吸血鬼レイが生きていて、演出家を餌食にしてしまえば、見ていて爽快だったにちがいない。


2階席の1列目からの観劇で、照明と第一幕のセットには趣向があって面白かった。転換のときに、下から上へライトを放射して光の幕を作って、舞台を見えなくしていた。
舞台と距離があるせいで、いい具合に、見えなくていいところは見えないのも効果的だった。


吸血鬼レイの犠牲になる少年(堀川裕生)が服の下に何か着込んでいると思ったら、腹を裂かれて臓物を取り出される仕掛け。堀川裕生くんは、(「初蕾」の)こたちゃんの頃からすると、面変わりした印象だけれど、どうだろう。