「リビエールの夏の祭り」を観劇

5月18日(金)に、俳優座劇場で、劇団俳優座公演「リビエールの夏の祭り」(吉永仁郎・作、中野誠也・演出)を観劇。

俳優座劇場公演の楽日。(このあと、すぐに、京都、大阪、奈良での演劇鑑賞団体の買い公演が組まれている)

午後1時30分開演。
ロビー表示のタイムテーブルは、一幕 80分、休憩 15分、二幕60分。

じっさいは、5分遅れの開演で、終演が、4時12分だった。

前方座席2列を撤去して、張り出し舞台を設置していたので、客席は、3列が最前列。


オリンピックの東京開催が決定した頃だから、時代は1959年だろうか。戦前に夫婦ではじめた店、喫茶店「リビエール」を守る東田綾子の前に、戦死したと伝えられていた夫、東田達也によく似た男が現れる。男は記憶を失くしてうらぶれ、浮浪者同然の暮らしをしていた。綾子は、その男が自分の愛した達也だと信じ、鳥越神社の夏祭りの夜、彼を「リビエール」に招き、記憶を取り戻させようと語りかける。


とにかくテンポが悪く、退屈ここに極まる、というのが率直な感想だ。座席がかなり前方だったおかげで最後まで見られたが、舞台から遠い席にいたら、睡魔に襲われ、終演まで目が醒めなかったかも知れない。

昭和30年代の下町の祭りの夜、男が体験した戦争の記憶が、閃光のように甦る。そのクライマックスだけが、唯一、一瞬の見どころだ。

この芝居の核心は、男が東田達也であるか否か、達也であるとしたら、なぜ記憶を失くしてしまったのか、という部分だろう。そこに到るまでをもっとスリリングに見せ、テンポよく運べばまだしも、展開があまりにも平板で冗長、とくに第一幕は、退屈でため息が出そうだった。暗転が多く、また、せっかく回り舞台を使っているのに、それが必ずしも効果的ではない。

新劇のお客さんというのは、舞台にエンターテインメント性を求めたりはしないのでしょうが、もう少し、見せ方がありそうに思った。


配役にも疑問を感じた。

川口敦子さん演じる東田綾子は、見た感じが老婦人であり、60歳より若くは見えない。
劇中のセリフで、東田達也(中野誠也)は大正4年生まれといっていて、彼が中学生のとき、綾子は小学生だったというから、この芝居の綾子は、40過ぎといった年配であろう。和田良太(田中美央)という年下の恋人をときどき泊めたりしていて、それなりの大人の色香も必要な役なのに、良太との関係は、最初、母親と息子かと勘ちがいしそうになったくらいの不自然さ。水玉の服を着た綾子の装いは、70歳くらいのご婦人が銀座辺りへでも出かけるような風情で、劇中の設定からすると、いささか不気味でさえある。見た目だけでなく、声や、口跡も老けているから、40代前半の女性らしい雰囲気は全く感じられなかった。昭和30年代の話とはいえ、これでは、見ていて混乱を来たす。

もちろん、舞台では、70歳、80歳の女優が若い娘役を演じることも、めずらしくないだろう。しかしそれは、若い頃から晩年までをひとりの役者が演じるとか、ある役を長年にわたって繰り返し演じて持ち役にしているなどの、それなりの必然性があってのことではないか。
この「リビエールの夏の祭り」は、新作であり、有名老舗劇団の公演なのだから、相応の女優がいないとは思えないのに、なぜ、こんな配役になったのか・・・芝居の内容以上に興味深い謎である(とまで書くと、嫌味に過ぎるか?)。


子役の日下萌実さんは、リビエールの常連客の孫娘、庄司香里役。芝居の冒頭のリビエールの店内で、祖父の庄司武雄(中寛三)と、てんつくてんつく、祭りでたたく太鼓のことでのセリフがある。そのあとは、本を読んでいる。
二幕では、祭りの日に、ゆかた姿で舞台を下手から上手へ横切る。カーテンコールは、ゆかた姿で。


プログラム、600円。