時代の証言者 中村吉右衛門 12
読売新聞朝刊に連載の「時代の証言者」
歌舞伎俳優 中村吉右衛門の第「12」回(5月25日付)は、『「別世界」の現代劇に当惑』
非日常的な歌舞伎とはちがう、日常と変わらない演技が求められる(菊田一夫の)東宝現代劇の芝居には、なかなか慣れることが出来なかった。
『幸四郎の兄貴は菊田先生が望んだ通り、現代劇で才能を伸ばした。ただ、親父と私の場合は、ちょっと誤算があったかも知れません。
菊田先生ご自身は、作家と重役の両方の立場があり、大変苦労されたと思います。商業演劇の中で人間の苦しみをあそこまで書ける方はいないでしょう。森光子さん主演の「放浪記」など、そうですね。』
1972年、八代目松本幸四郎は東宝との専属契約を優先本数契約に切り替え、間もなくフリーとなり、以後は松竹の歌舞伎で活躍する。
少し早く東宝をやめた吉右衛門は、父よりも先に松竹へ戻り、『最初は、二代目尾上松緑のおじさん(実父の弟)に面倒を見ていただき、菊五郎劇団の芝居に、随分出していただいた。』
直前まで三之助と呼ばれていた、市川海老蔵(現・團十郎)、尾上菊之助(現・菊五郎)、尾上辰之助(初代、故人)の人気で、菊五郎劇団には活気があった。
『そこに添えられたようなものでしたが、思い出深いのは3人代わりの「勧進帳」(72年)に出たことですね。私と海老蔵さん(團十郎)、辰之助さんで、弁慶・富樫・義経をクルクルと代わるんですよ。
これまでに弁慶と富樫の交互出演というのはあっても、私たちのやったのは義経も入っての3役なので、苦労しました。そんなことははじめてだったようです。
そのころの私は今と違って、3役のうち、弁慶が一番つらそうだと思われたんじゃないですか。細くて、義経と富樫の役者であり、弁慶はあまり役に合わないという感じでしたよ。』
吉右衛門が二代目を襲名した1966年には国立劇場も開設され、68年には市川猿之助が同劇場で「義経千本桜」の宙乗りを披露するなど、歌舞伎にも新しい風が吹きはじめていた。
・・・(歌舞伎座の)筋書きに掲載されている上演記録を見ると、件の、海老蔵・吉右衛門・辰之助による三役日替交代の「勧進帳」は、1972(昭和47)年10月、歌舞伎座で上演され、その後さらに、74年3月に京都南座、77年9月に歌舞伎座と、同じ3人の三役日替交代での上演があった模様。