時代の証言者 中村吉右衛門 10



読売新聞朝刊に連載の「時代の証言者」

歌舞伎俳優 中村吉右衛門の第「10」回(5月23日付)は、『襲名決めた親父の "ぽつり"』



今回は、吉右衛門襲名のこと。



1963年、早稲田大学文学部仏文科に入学。兄も早稲田に進んでいたが、歌舞伎役者の大学進学は珍しい時代だった。発奮して受験。役者をやめようかと思っていたからだ。

 『フランス文学を勉強してきます、といってフランスへ行く。そして、文学はだめだろうから、向こうでジゴロにでもなろうかな、と思っていました。カミュサルトルにかぶれていました。



大学は安保闘争の余波でひどい状況で、学生が集まらず休講になることも多かった。高校まで通った暁星では小学校からフランス語の授業があった。それをまた大学で一からやるので、そのうち嫌になった。『嫌になっているうちに半年もしないうちに抜かれてしまう。もともとあまり勉強が好きでないことは確かです。

二代目吉右衛門を襲名すると、さらに行かなくなり、心配した先生の配慮で籍を置いていたが、結局大学は中退した。



二代目中村吉右衛門襲名興行は、66年10月に帝劇で。「金閣寺」の此下東吉、「積恋雪関扉」の宗貞など。歌右衛門松緑も顔を揃えてくれた。



 『襲名は、ばあやが喜んでくれるだろうと思って決意しました。

 その前に、親父に役者をやめてフランスに行きたいと言うと、「何にでもなってしまえ」とぽつりと言った。吉右衛門を作ろうと思って苦労してきたことを、お前は何も分からないのか、と言外に言われたような気がして。




 『私は養子なんだし、親父は藤間で私は波野、姓まで違う。今まで養ってくれた親父にものすごく失礼だなと、思いました。

吉右衛門の名は一代限りにしたらどうかという声も聞こえて来て、自分の立場に悩んだが、

親父の気持ちも分かったし、65年にばあやも亡くなったし、これは吉右衛門を継がなくてはと決心しました。東宝で襲名したのは私だけですね。







・・・昨日、5月22日は吉右衛門さんの誕生日だったのだね。なんと、前進座の創立と同じ日なのか、と。