読売新聞の文芸時評より



10月26日付読売新聞夕刊の文芸時評が、

「いじめ」におびえる日常

の見出しで、新鋭、新人作家の作品を評している。

若い書き手の作品にいじめが頻出するのは、偶然ではない。



今日の若い世代にとって、「いじめ」は、日常と不可分な、切実でリアルな現象であり、若手作家の作品はそれを反映したものだ、という解釈でいいだろうか。



私は「いじめ」という言葉が嫌いで、マスコミが「いじめ」という言葉を使う限り、いじめはいじめとしてありつづける、と思っている。たとえ子ども同士のことであっても、「いじめ」といわずに、中傷した、暴力を振るった、他人のものを盗った隠した、強要した、などと表現することが大事で、少なくともマスコミが報道する際はそうして欲しいと思うのだが・・・現実には、「いじめ」は、しっかりと、学校の日常のなかに根付いてしまったかのようだ。



若い書き手による「いじめ」絡みの作品は、おもしろいのだろうか。先にも少し書いたが、綿矢りさ氏の「You can keep it.」は、何のためのこんなものを書いたのか、読んでいてあきれてしまうくらいにつまらなかった。「野ブタ。をプロデュース」は原作は読んでいないから、放送中のドラマについてだが、設定自体が莫迦々々しくてついて行けない。「いじめ」を扱ったエッセイを手にとっても、途中で読みたくなくなる。



これは、単にその作品との相性が悪いのか、それとも、世代的な感覚の差異が関わっていることなのか。



私の場合、「いじめ」が社会問題化した頃にはもう大学に通っていたし、校内暴力とはすれちがいなので、荒れる中学校も他所事である。(世代的には、地域差があると思うが)



いじめる、いじめられるといって、じっさいに経験したり、目にしたことがあるのは、好きな女の子をいじめるとか、ちょっと服装が汚い子をからかうようなことで、大抵は、おせっかい焼きで正義感の強い女の子がしゃしゃり出て来て「そんなことをしたらいけなんだからね。やめなさいよ」とかいうと、ちょっかいを出したほうがバツが悪くなってすごすご引っ込んで収まる、といった程度のものだから、今日的な「いじめ」というものがリアルには感じられず、好ましくないものとして、距離をおこうとする気持ちが働くのかも知れない。



「いじめ」が介在する人間関係と不可分の学校生活を送る、ということが、どうにも理解し難い。