話の肖像画 劇作家・翻訳家 高橋知伽江


産経デジタルの「話の肖像画」より、

劇作家・翻訳家 高橋知伽江さん (58)

(1) http://www.sankei.com/entertainments/news/141117/ent1411170001-n1.html

(2) http://www.sankei.com/entertainments/news/141118/ent1411180003-n1.html

(3) http://www.sankei.com/entertainments/news/141119/ent1411190003-n1.html

(4) http://www.sankei.com/entertainments/news/141120/ent1411200004-n1.html

昭和31年、新潟生まれ。劇団四季では、最初は、浅利慶太氏の秘書兼演出助手。「キャッツ」日本初演のときには、広報を担当していた。30歳直前に四季を離れ、新神戸オリエンタル劇場に移った後、再び四季に戻り、平成9年からはフリーになった。

『ディズニー作品との出合いは、映画「ノートルダムの鐘」で劇団の役者が声優として出演した際、連絡役を担当したのがきっかけです。』

劇団四季は世界の一流の作品を扱っているので、必然的にスタッフの質も高い。劇団の外に出たときにも、ある意味ブランドになります。また演劇界には元劇団四季の人たちのネットワークもあって、そうした関係で仕事をもらったり。私の場合はそんなふうに、幸いフリーになってからも仕事がつながっていきました。』


新神戸オリエンタル劇場は、当時は、劇団四季の関西での拠点劇場のひとつでしたよね。

このインタビュー記事のなかに、高橋知伽江氏が脚本を出がけた舞台「チンチン電車と女学生」のことが出て来ますが、これは、大阪では、劇団往来が上演している作品ですね。今年6月の公演には、玉山詩くんも出演していたはず。
https://www.facebook.com/pages/%E5%8A%87%E5%9B%A3%E5%BE%80%E6%9D%A5/308261582594207

劇団昴公演「ラインの監視」(座・高円寺2)


劇団昴公演 座・高円寺上演協力事業

「ラインの監視」

作:リリアン・ヘルマン、訳:小田島雄志、演出:原田一樹(劇団キンダースペース)

座・高円寺2で、11月16日(日)のステージを観劇。

過去ログのこの(→http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20141021/p5)公演である。

5日間全5ステージあったうちの千穐楽

行けるのはこの日しかなかったのだけれど・・・でも、前日の15日はポスト・トークがあって、小林柚葉さんをはじめ、子役キャストも登場したとのことだから、その日のほうがお得感があったのだなぁ。
http://gekidansubaru.com/blog/index.php?c=1-20


午後2時開演。上演時間は、2時間20分(休憩なし)。16日のじっさいの終演は、午後4時18分ぐらい。

公演プログラムは、500円で販売。

チケットを申し込んだのは割りと遅かったのだが、座席は、前から2列目だった(B列が最前列になっていた)。

観客の目の前にあるのは、舞台というよりは、ファレリー家のリビングそのもので、220〜230程度のキャパシティの劇場で、5ステージしか上演しないにしては、ちょっともったいないようなセットだった。

座・高円寺上演協力事業とあるし、助成金も出ているから出来ることだろうか?いささか野暮な興味ではあるが、その助成金の額は、ここを見れば載っている。
http://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/kikin/joho/h26/hojyokin26.pdf

この舞台の主要人物はアメリカのこういうリビングがあるお屋敷に使用人を使って暮らし、育ったひとたちで、そんな一家で起こる出来事なのだ、ということをひと目で理解させるセットだった。


幕開きから緊張の途切れないスリリングな台詞劇が展開する。劇中のセリフ、会話のなかに、登場人物たちの設定や関係性、思惑などが上手く織り込まれていて、緻密でありながらも難解ではない。むしろ、役々の性格やえがき分けは、明瞭だ。

登場人物の多くが鋭い視線を投げたり、目の動きを遣って対立関係や警戒感を表出するなど、目は口ほどにものをいう演技が多用されていた印象を受けたが、これは、演出によるものだろうか。

三世代が揃えば、どんな家族のなかにも程度の差こそあれ存在するはずの、愛憎や反発、無理解、よそよそしさといったものを、舞台は巧みにえがき出していた。

この戯曲が書かれ、初演された当時の合衆国にとってはリアルな現実感をともなう作品だったことが想像されるが、いまの日本で上演されても、全く旧くはなく、それどころか切実で普遍的なテーマを持っている作品だと思った。ファレリー家のリビングで起きる「事件」は、親子、男女、そして家族のドラマとして収斂されているように見せつつ、これは、ひとが政治的な対立に意図せずとも巻き込まれてしまうひとつのケースであるし、国が戦争に踏み込まざるを得なくなる状況をシンプルなかたちで図式化したものとも読み換えられるだろう。

政治対立や、戦争とは遠いところにいると思われたひとたちが、たちまちに、その立場を決めて腹をくくらなければならなくなる様子は、ひとごとではない。この芝居の反ナチを別の言葉に置き換えれば、今日の日本に生きている身にも、似たようなことがいつ起きたとしてもおかしくはないと思わされる。もし自分が、劇中のファニーやデーヴィッドであったとしても、やはり、同じ選択、決断をせざるを得ないだろう。そんな説得力を持つがゆえに、なかなかこわい芝居なのである。

バベットは、バビーっていう愛称で呼ばれるのね。


この16日は、1階の座・高円寺1では、カムカムミニキーナの公演が行われていたが、そちらも千秋楽で、開演時刻だけでなく終演も「ラインの監視」とほぼ同じぐらいだった模様。