映画「ANNIE」は里子のアニー、赤毛のアニーはクラスメイト


先週、映画「ANNIE/アニー」(https://www.facebook.com/AnnieMovie.JP?fref=photo)を見た。

そのシネコンでは、字幕版と日本語吹替版とを交互上映していたが、ネットで座席の埋まり具合をチェックしたら、字幕版のほうがお客さんの入りがいいみたいだった。

私が見たのは、もちろん吹替版(声の配役は、→http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20150126/p1)。歌は吹き替えなしなので(ただし、ナンバーの途中に入るセリフは吹き替えられている)、歌の訳は字幕が出る。エンドロールのあとに、吹き替えキャストの名前も出ていた。

本編がはじまる前の予告編のなかには、丸美屋食品ミュージカル「アニー」の予告もあった。


雑誌で読んだ、ウィル・グラック監督のインタビュー記事には、いまのアメリカの子どもたちが舞台の「アニー」を見たとき、孤児院、大恐慌やフーバービル、ルーズベルトといった物語の背景がピンと来ない。映画は、21世紀に生きるみんなが共感出来るものにしたいと思った、というような言葉があった。
そのねらいは成功していて、この新しい「ANNIE/アニー」は、設定がいかにも現代的で、映画としておもしろいし、終盤の感動も大きい。

オーバーチュアは、舞台のミュージカル「アニー」そのまま。そして最初のシーンでは、アニーが通う学校でニューディール政策についての発表が行われている。いちばん最初に登場する女の子が「赤毛のアニー」で、この映画の主人公・アニーと同じ名前の女の子が、教室にもうひとりいるのだ。これらは、舞台版「アニー」へのオマージュと受け取ればよいのでしょう。

この映画のアニーは、孤児じゃなくて、里子だって。ハニガンはアニーたちの里親。アニーは、孤児院に閉じ込められているのではなくて、外を走り回ってもいて、自転車にも乗るし、電車にも乗る。捨てられたのは、4歳のときで、べネットという苗字も分かっている。(里子で苗字も分かっているから、舞台版のアニーみたいに、ウォーバックスに姓は?と訊かれて、ただアニーです、ウォーバックスさん、孤児だから云々・・・なんてかわいくいい返したりはしないのだ)

トーマス・ミーハンのミュージカルの原作では、アニーはスペリング大会で優勝出来るくらいの女の子だが、今回の映画のアニーは、その逆を行く設定で、字が読めない。社会保障番号から自分に関するデータを請求したアニーが、その書類を自分で読まずに読んでもらう、というシーンは、後の展開への伏線でもある。


「ハードノックライフ」では、手押し車での雑巾がけとか、上から投げられたゴミを、ふたで弾いて仕分けて、ゴミバケツに分別しちゃうシーンなど、おもしろい。映画で新アレンジされているミュージカルナンバーのなかでは、「ここが好きになりそう」がよかったかな。ケータイ電話成金のスタックスが暮らしている、ハイテク過ぎる部屋も、見ていて楽しい。

スタックスがアニーをヘリに乗せて、ニューヨークの街の上空を飛ぶシーンが、なかなかいい。スタックスといえば、あの潔癖症っぷりが妙に可笑しいよね。

アニーは、スタックスの市長選挙の人気取りに使われていたことから、すっかり有名人になっていて、にせ親に連れ去られても、行く先々で、アニーを見たひとがツイッターに写真を載せたりして、それらの情報からスタックスたちはアニーを追跡するのだけど・・・・それ以前に、ハニガンは、にせ親をオーディションで選ぼうとして募集をかけていたのだから、連れ去られる前にそっちの情報から、親がにせ者だと気づいて欲しいと思っちゃうな。
でも、アイリーン・クインの映画でも、アニーが連れ去られての追跡シーンがあったから、映画としては、そこがないと画的にもクライマックス感に欠けてしまうのか。

「あなたが欲しいだけ(I don't need anything but you)」のナンバーを最後に持って来たのは、この映画にはよく合っている。